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             「うー……」 
 結局風呂から出られたのは、女湯が静かになってから十分ぐらいしてからだった。 
 正直のぼせた。 
 いや、途中で出ればいいじゃんとか女湯静かになったらすぐ出ろよとか言われるかもしれないが、その辺は俺も健康な男性なので察していただきたい。 
 男の子は色々大変なんです。いや、本当に。 
 でもまあ一応何とかかんとか落ち着いたので女性陣の部屋に向かう。 
 風呂からはもうみんな戻っているはずだし、って言うかふすまの向こうから話し声がもれ聞こえてくるんだけど、どうもそのふすまを開くことが出来ない。 
 いや、最初通された部屋なんだけど。別に俺が入っても追い返されると言うことはないはずなんだけど、それでもなんというか女の園ちっくな空気が俺の侵入を拒絶しているような気がして―― 
「衛宮様?」 
「うひゃおうっ!」 
「なんですか、ワオキツネザルがしっぽを踏まれたような声を出して」 
「なんだ、女将さんですか……」 
 と言うかワオキツネザルのしっぽ踏んだことあるんですか、女将さん。底の知れないお人である。 
「あ、それ夕ご飯ですか?」 
「はい、ご連絡いただきましたので」 
 そう行ってにっこり微笑む女将さんは一人の女性――多分仲居さんを連れて台車に料理を乗せて運んで来ているのだが。 
「なんか、凄い量ですね」 
「藤村様から仰せつかっておりますので。遠慮なさらず召し上がってください」 
「ありがとうございます――あ、すいません。俺がここにいたら邪魔ですよね」 
 いつまでも立ち話しているわけにもいかない。 
 女将さんと運ばれてきた料理に背中を押されるように、俺はふすまをノックした。 
「はい。士郎?」 
「ああ、入っていいかな。料理もちょうど来たみたいだし」 
「どうぞ。良かったわねセイバー。お待ちかねの夕食がやっとご到着よ?」 
「リン、何を言うのですか! それではまるで私の食い意地が張っているように――」 
 いつもどおりのやり取りに思わず頬を緩め、ふすまを開けて部屋に入る。 
 部屋の中ではみんな思い思いにくつろいでいた。 
「ではすみません、皆様。料理を並べさせていただきますので、テーブルの上を片付けさせていただきますね?」 
 女将さんがそう言い、俺が「はい」と返事したのを確認すると仲居さんが部屋に入って手際よくテーブルの上を片付ける。 
「それではお料理の方を用意させていただきます」 
「あ、手伝いま――」 
「衛宮くん。私たちは『お客さん』なんだから、少し大人しくしていなさい。桜も」 
 思わず普段の感覚で手伝おうとしたら、遠坂に止められた。 
 腰を少し浮かせているところをみると、桜も俺と同じく手伝おうとしたのだろう。 
 いや、普段の主夫生活が身に染み付いていると、こういう上げ膳据え膳みたいな感じなのはちょっと、なあ? 
「ほら、いいから。シロウも少し人にもてなわされることに慣れたほうがいいわよ?」 
 そう言ってイリヤ俺の手を引き、座布団に座らせる。 
 そんな間にも着々は進み、六人分の料理とそして―― 
「うわ、舟盛ですよ。わたし初めて見ました」 
「うん、俺もだ」 
「おお、これは……」 
 素直に驚きの言葉を上げる桜と俺、そして我が家一番の美食家と言うか健啖家であるセイバー。 
 もちろん今まで刺身を食べたことがないなんてことはないが、やっぱり舟盛には何か問答無用な説得力のようなものがある。 
「シロウ、これが噂に聞く『フナモリ』というものなのですね――」 
「ああ、そうだ。さすがにうちじゃあ出来なかったけどな」 
 テーブルの向かいで目をキラキラと輝かせて喜ぶセイバーを見ていると、それだけで旅行に来て良かったという気がしてくる。 
「ああ、まさかこの身に『フナモリ』を食べるという幸運が訪れようとは――」 
 ちょっと大げさすぎる気がするが。 
「これだけの刺身を一人で食べてもいいなんて――」 
「いやダメだから」 
 そして頃合を見計らって止めないとたまにまずいことになるが。 
「――え?」 
「いや、それは言ってみれば大皿料理だから。それはみんなで分けて食べるんだ」 
 後に遠坂凛(魔術師、十×歳)は語る。 
「あのバカ、空気を読まないからね。もう少しタイミング見計らえばセイバーだってあそこまでは落胆しなかっただろうに――」 
 そう、それは凄まじい落胆だった。 
 それはどれくらいっていつのまにか部屋の隅に行って体育座りをするぐらい。 
 そんでもって周囲に黒いオーラを撒き散らし、あわや黒き騎士王爆誕かと思えるほどの。 
 しかしそんな落胆は、ひとつの言葉で解消された。 
「――よろしければ、追加をお持ちしましょうか?」 
 後にイリヤスフィール・フォン・アインツベルン(魔術師、あくまで十×歳)は語る。 
「まあ予想通りの展開だったんだけどね? レディとしてあそこまであからさまなのはどうかと思うの。まあ、いい言い方をすれば真っ直ぐなんだけど」 
 そう、真っ直ぐだった。 
 真っ直ぐに動いた。 
 直前までいた部屋の隅から女将さんの前まで真っ直ぐ、まさに一直線。 
 それだけの距離を瞬時に移動しながらも配膳された料理をこぼしたりしないのはある意味さすがだと思うが。 
「本当ですか、女将!」 
「ええ、藤村様からは十分すぎるお代を頂いておりますし――何より、そこまで当旅館の料理を楽しみにしていただけると言うのであれば、板長も喜びましょう。少しお時間を頂ければ御用意させていただきます」 
 そう言ってにっこりと笑う女将さんの表情は、本人の言うとおり客商売を営みとする人間の喜びと誇りに満ち溢れていた。 
「女将、貴女に感謝を。それでは人数分のフナモリを――」 
「いや、追加はセイバーの分だけでいいから」 
 そして俺は慌てて止めた。 
「しかしシロウ。私だけそのような過福――」 
「いや、いいんだ。俺たちはみんなでひとつで十分だから」 
 こくこくと、みんなそろってうなずく。 
 普段ならともかく、今日は藤ねえがいないのである。そんなにたくさん用意されても食べきれるとは思えない。なんかひょっとしたらセイバーが全部食べるかもと言う気も一瞬したけど、それはさすがに食べすぎだろうからやめておく方向で。 
「ああ、シロウ。それに皆。貴方たちに感謝を――」 
「うんうん。それじゃあとりあえず席に着こうな」 
 そう言ってセイバーを席に着かせて、俺も席に着く。そうやって全員が席に着いたことを確認すると、女将さんはまたにっこりと微笑んで口を開く。 
「では、舟盛を一つ追加でよろしいでしょうか」 
「はい、よろしくお願いします」 
「それでは追加分はすぐにお持ちいたしますので、お食事をお楽しみください」 
「はい、いただきます」 
 そして俺たちは、この旅館の板長が腕によりをかけてくれたという海の幸・山の幸をふんだんに使った料理に舌鼓を打ったのであった。 
 ちなみに結局舟盛の追加は二つになり、セイバーの食欲とその美味そうな食いっぷりは板長をはじめとする料理人の人たちにえらく好評だったらしいことを記しておく。 
             
             
             
 
「くはぁ、効くなあ――」 
 温泉につかり、息を吐き出しながらそうつぶやく。 
 おっさんくさいと言われるかもしれないが、効くものは効くんだからしょうがないのである。湯が疲れた体に染み入ってくる気がする。 
「さっきはゆっくりつかるって感じじゃなかったしなあ……」 
 まあ、ほら。色々と。 
 でも今は隣も静かだし、聞こえるものと言ったら風の音ぐらいである。実に静かだ。 
 熱い湯につかって岩肌に背を任せ、上を見上げると満天の星空。冬木もまあ大都会と言うわけではないが、そこそこに建物はあるのでここほど多くの星は見えない。いつだったか雷画爺さんが『星が減ったなあ……』などと呟いていたことも、この星空を見れば納得できる。 
「満天の星空を見ながら、こんな広い風呂にゆっくりつかる。この上ない贅沢だな――」 
 酒飲みであれば湯船に日本酒の入ったお猪口と徳利でも浮かばせるのかもしれないが、あいにくと俺はそんなに強くない。 
 みんなは――まあイリヤは置いておくとして、セイバーやライダーはもちろん、そして遠坂と桜も姉妹そろって酒に強い。魔術薬の調合にアルコールを使用することもあるんだから酒には強くなければいけないと言うのが遠坂の弁だが――あれは嘘だ。いや、嘘と言うのとは違うかも知れないが、少なくとも遠坂姉妹は酒飲みである。さっき食事の後に差し入れられたここの地酒も実に美味そうに飲んでいたし。 
 ちなみに俺はと言うと、飲まないのも失礼だと思い舐める程度に少し味わったぐらいである。美味い酒なんだろうな、ということはわかったけれど、残念ながらそれ以上は飲めなかった。 
「俺ももう少し酒に強くなるべきなのかなあ……」 
「そうですね。無理にとは言いませんが、もう少し酒の味を楽しめるようになった方がいいのではないかと」 
 そうだよなあ。まあ、それは藤ねえにも雷画爺さんにも、ついでにバイト先のネコさんにまで言われてきたことなのだが。 
『大酒飲みになる必要はないが、酒を楽しめないことは人生にとって大きな損失である』というのが彼らの主張である。 
 他の二人はともかく、一応は教師であるはずの藤ねえが生徒に向かってそう言うのはどうなのよ、とも思うが、それもまあ今更だ。 
 しかし、今回の旅行は色んなことがあった。一泊二日の小旅行でしかないはずなのに、信じられないほどの密度である。 
 その全てが大騒ぎなのはまあいつものことなんだけど――それでもまあ、みんな喜んでくれている。それだけでもこの旅行に来た甲斐があると言うものだろう。 
 しかしそんな旅行ももうすぐ終わり、明日の朝にはこっちを出発することになる。 
 振り返ってみれば慌しい旅行であった。 
「もう少しゆっくりできれば良かったんだけどな――」 
「そうですね、士郎」 
 まあ、今回は雷画爺さんの好意で奢ってもらった旅行である。 
 次は自分の稼いだ金でみんないっしょに――そうだな、二泊か三泊かけてゆっくり旅行したい。みんなもきっと喜んでくれるだろう。 
 その時は――まあ、もう一度この旅館に来てもいい。まあ問題が無いとは言い切れないけど、女将さんをはじめとして旅館の人たちはみんないい人ばかりだ。 
「よし、次ももう一度ここに来よう」 
「そうですね。是非」 
 そう言ってくれると張り合いがある。一つ気合を入れて仕事して、無駄遣いせずにしっかり貯金を…… 
「……え?」 
 横を見るとそこには紫紺の髪を湯にたらし、湯に徳利とお猪口の入った桶を浮かべて酒を楽しんでいるライダーがいた。 
 もちろん全裸だった。 
 どこぞの温泉レポート番組などとは違い、水着や――ましてやバスタオルを体に巻いたまま湯船につかるなどと言う無作法をするなどということもなく、ものの見事に全裸だった。 
「ラ、ライダー! 裸!」 
「風呂に入っているのだから当然でしょう。士郎だってそうではありませんか」 
「いや、そりゃそうだけど。っていうかなんでライダーがここにいるんだ! 男湯だぞここ!」 
 かこーん。 
 ししおどしの音が響いた。 
 そして周囲にまた静寂が戻る。 
 聞こえるのは風の音と水音ぐらい。 
 そんな静寂の中俺とライダーは見つめあい、いったいどれだけの時間が経ったのか――まあ実際には数秒だったと思うのだが、やがてライダーは答えを返した。 
「眼鏡をしていなかったもので、うっかり男湯と女湯を間違えまして」 
「部屋から脱衣場に入るまで眼鏡なしで来たのか?」 
 かこーん。 
 またししおどしが鳴った。 
「……まあ、細かいことはいいではありませんか」 
「よくねえ! って言うか別に魔眼殺し外したからって視力は落ちねえだろう……?」 
「どうしました? 士郎」 
「ライダー、いま魔眼殺ししてないんだよな?」 
「はい」 
 まあ、聞くまでもないんだが。どう見ても眼鏡してないんだし。 
「俺、石化してないんだけど」 
 そう、石化していない。 
 自慢じゃないが、俺はそれほど魔力抵抗が高いと言うわけではない。ライダーの石化の魔眼に晒されたら数分と待たずに石化する自信がある。いや本当に自慢にならないが。 
「ああ、そのことですか」 
 俺の質問を聞くと『そんなことですか』と言わんばかり息を抜き、さも当然といった風に答えを返してくる。 
「今回は温泉旅行と言うことだったので、リンに魔眼殺しのコンタクトレンズを用意してもらったのです」 
「それじゃあやっぱり視力落ちることはないじゃないか」 
「……まあ、細かいことはいいじゃないですか」 
「細かくねえ! っていうか風呂に入るなら早く隣の女湯に行け!」 
「いいではありませんか。さっき女将に聞いたんですが、どうやら今日は他の客がいないので私たちの貸し切り状態みたいですよ?」 
「なっ――」 
 道理でここについてから他の客を一人も見ないと思った。 
 ひょっとしたら雷画爺さんが手を回して貸し切りにしてくれたのかもしれないけど、今はそんなことどうでもいい――! 
「いいから! ライダー、早く――」 
「第一何を焦っているんですか。私の裸を見るのが初めてというわけでもないでしょう」 
「いやまあ、そりゃそうなんだけど」 
 いや、そうなんだけど。それを言われると返す言葉もないんだけど。 
 返す言葉もないんだけど、ここですんなり認めてしまっては最後の一線を越えてしまうというか何というか。 
「私も今どうこうしようと言う気はありません。せっかくの温泉旅行なんですから、士郎と一緒に風呂に入りたい――それだけですよ」 
 そう言ってライダーはにっこりと微笑んだ。邪気のない、子供のような笑顔で。 
 まあ、そう言われると俺も黙るしかなく。立ち上がりかけていた腰を下ろし、湯につかりなおす。さすがに今の状態でライダーの方を見ると色々問題がありそうなので顔だけはそらしているが。 
 そんな俺を見てもライダーは不満を漏らすことなく、ただ湯につかって時々酒を口に運ぶ。 
 静かな――本当に静かな空間。風の音と水の音と、そして時々鳴り響くししおとしの音しか聞こえない。 
 ひょっとしたらもう世界には俺たち二人しかいないんじゃないか――そんな錯覚すら覚える空間。 
「――士郎」 
「ん?」 
 落ち着いた空気の中、問いかけて来るライダー。 
 だから俺も落ち着いて声を返す。 
「また、こうやって旅行に来たいですね」 
「ああ、そうだな」 
 うん、本当に。こういうのは悪くない。冬木にはそれなりに愛着もあるけれど、たまにこうやって離れて見るのはいいことだと思う。 
 そう思って半ば呆っとしていると、 
「……その時は二人きりで」 
「ライダー!?」 
 ライダーは爆弾発言してくださりやがりました。 
 思わず振り返ってライダーを見るとその表情には悪戯っぽい笑顔が浮かんでいた。 
「冗談ですよ」 
 そう言っててこっちを見つめられると目をそらすしかなくなり、うっかり視線を落とすとお湯越しにライダーの美しい肢体が―― 
「じゃ、じゃあそろそろ上がるな!」 
 ざばあ、と。音を立てて勢い良く立ち上がり、それでも一部分をタオルで隠して湯から上がろうとする。 
 もういい、今日はこのまま部屋に帰ってとっとと寝よう。さもないとなんかいろいろと大変なことに――大変なことになるというのに、ライダーはそんな俺の考えなど気づかぬように声をかけてきた。 
「そういえば士郎、体は洗ったのですが?」 
「お、おう。湯船に入る前に洗ったぞ?」 
 それは風呂入る前のマナーだから。今日二度目の入浴だけど、一応それなりにしっかりと洗ったつもりだ。 
「いけません、せっかくですから念入りに洗いましょう」 
「いや、その『せっかくだから』の意味がわからないから!」 
「私が士郎の背中を流すと言っているのです。人の好意はしっかりと受けるものですよ?」 
「いやでも俺もうしっかり体洗ったから! ほら!」 
 何が「ほら」なのか我ながらさっぱりわからないが、それでもこれ以上ライダーを動かしてはいけない。まちがいない。マズイ。マズイって絶対いや本当に! 
「士郎がどうしても駄々をこねるというのならば力ずくでも――」 
「もはや『好意』じゃねえー!」 
 駄目だ。もうライダーは止まる気がないらしい。こんなライダーを止められるのは桜ぐらいだが、残念ながら桜はここにはいない。いや、いられても別な意味で大変なことになりそうだが。 
 せめて、せめて少しでもこんな状況を打破しなければ! 
 えーと、えーと、そうだ!  
「ライダー、ちょっとその。さすがにそのまま風呂から上がられると!」 
 うん、それは絶対まずい。お湯越しに見た今だって正直ちょっと大変なことになりかかっているというのに、そんな物を直に見たりしたらいや本当にマズイっすよ絶対。 
「とりあえず何かで隠してくれ!」 
 何とかそれだけ言い放つ。 
 その言葉を最後に数瞬の間静寂が周囲を支配するが、やがてライダーは口を開いた。 
「――わかりました」 
 ほっとした。 
『ほっとする』というのはこういうことをいうんだろうなという感じでほっとした。 
「では士郎は後ろを向いていてください」 
 ライダーの言葉に従い、俺は後ろを向く。 
 それを確認したのかやがてライダーが湯から上がる音がして、その後に足音。そして脱衣場に入る音がした。 
 よかった。全裸だったら色々と問題だけどバスタオルでも巻いてくれればPS2だって大丈夫だ。何を言っているのかさっぱりわからないが、本当に良かった。 
 なんかパニクりつつある精神を何とか落ち着けるために深呼吸をしていると、やがて後ろから声をかけられた。 
「お待たせしました」 
「ああ、ごめんな。せっかくの好意を俺のワガマ――マ――で――」 
 言葉を失った。 
「これで士郎のお望みどおりかと」 
 うん、確かに全裸ではなかった。 
 確かに全裸ではなかった。 
 裸Yシャツ再びだった。 
「なんでさ?」 
「裸が嫌だと言ったのは士郎でしょう」 
「いや確かにそうなんだけど……ってライダーさん、なんで俺の体を洗うのに自分の体を泡立ててるのかな?」 
 しかもYシャツごと。 
 せっかく着て来たYシャツを濡らしてまで。 
 というかYシャツが濡れると下の肌が透けて色々見えてちょっとどうしますよお客さん。 
 そしてライダーは、俺の問いを聞いて妖艶に微笑んだ。 
「聞きたいですか?」 
 しろうはにげだした! しかしまわりこまれてしまった! 
「全サーヴァント中最速を誇る私から逃げようというのは無駄な行為だとそろそろ覚えてもいい頃だと思うのですが」 
「いやでも、やっぱりそこは逃げとかないと」 
 色々と大変なものが。何だろう、男の矜持とかプライドとか。なんか意味かぶってる気もするけど気にするな。 
「そして士郎の身体能力では私に抗えないこともわかりきっているでしょう」 
 そう言うとライダーは一瞬のうちに間合いをつめ、即座に俺の背後に回って足を払う。 
「あっ――」 
 つんのめって転ぶ――が、幸いにも地面にぶつかることはない。ぶつかる直前にライダーの手が回され、優しく抱きとめてくれたから。それはまるで母のように。こんな母がいたら色々問題だと思うが。 
 そしてそのまま地面にゆっくりと横たえられ、耳元に囁きかけられる。 
「観念しなさい、士郎」 
「いやライダー、まずいって。みんなに気づかれたら――」 
「騒がなければばれませんよ」 
 そう言ってライダーは泡だらけの体で覆いかぶさってくる。それだけでライダーの豊かな双丘が俺の背中に押し付けられ、そしてライダー自身の重みでそれは歪み、より一層の密着感を与えてくる。 
「じゃあ、始めますね」 
 もう返事なんか出来ない。 
 体中の神経が背中に集中しているような感覚。これに溺れてはいけない。いけないと俺の理性は警告を発し続けているんだけど―― 
 ライダーの体が上下するたびに豊かなふくらみが背中を撫で、羽織っているYシャツの生地の感触も相まってなんかもう、なんて言えばいいか。いや、言っちゃいけないのか。もう何がなんだか良くわからない。 
 視界が狭まり間隔が狂い、全ての神経は背中に集中して思考はひたすら加速し続ける。 
 理性はここから逃れ出ろと叫び続けているのだけれど、俺の奥底に眠るもの――本能と呼ばれるものはそのまま堕ちてしまえと甘く囁き続けている。 
 理性と本能の戦い――漫画的にいうと天使と悪魔が上で何か戦っていそうな状況は、やがてその均衡を破る。 
「うをっ!?」 
 するり、と。 
 全くの不意打ち。 
 全ての感覚が背中に集中していたときに、胸部をまるでくすぐるように掠めたその感触。 
 初めは気のせいかと思えたそれは決して気のせいなどではなく、胸部から腕部、そして腹部やしまいには下腹部にまで及び――。 
「ラ、ライダー!?」 
 いけない。このままではいけない。このままではもう理性が崩れて無くなってしまう。 
 必死の思いで言葉を振りしぼってライダーにそう声をかけたがその攻撃は休むことなく、それどころか勢いを増していくばかりだった。 
「ラ、ライダー。さっきから何を――」 
「ああ、すみません。私の髪も士郎の体を洗いたがっているようでして――」 
 そう言ってまた妖艶に微笑む。 
 神話に曰く、ゴルゴンの三姉妹の髪は生きた蛇であると。その言い伝えが真実だと言うことを示すかのようにライダーの髪は舞い踊り、俺の体を撫で――ライダーの言葉を借りれば洗い続ける。 
 その間も背後のライダーが休むことはなく、結果として俺は全身でライダーを感じることになりもう―― 
 限界だ、と。 
 かすかに残り、崩壊一歩手前の理性が悲鳴を上げる中。 
 ライダーは最後の一手を投じた。 
「士郎――される一方ですか?」 
 囁き、そして耳たぶを甘噛みする。 
 ライダーの歯が士郎の耳たぶに、もはや痛みと呼べない痛みを与えた瞬間――衛宮士郎はその内で、確かに『ぷつん』と何かが切れる音を聞いた。 
 ぐるん、と。 
 まず体を反転させ、そして自らの上にあるライダーの体を抱え、転がり――そしてライダーの体を自らの下に組み敷いた。 
 冷静に考えて見ると英霊であるライダーが人間である衛宮士郎に不意をうたれることなどあるはずもなく――増してや『スキル:怪力B』を持つライダーが士郎の腕力ごときで組み敷かれるわけもない。どう考えてもこの状況はライダーの望む通りの状況であり、ライダーに誘われた士郎が襲い掛かっているというそう言う状況なのだが――もはやそんなことはどうでも良かった。 
 今士郎の下ではライダーがしどけなく寝そべり、その身に纏ったYシャツはもはや衣服としての用を成さないほど水を吸い、その下の肌を透けて見させ――そしてライダーはその両手を延ばし、士郎の頭をその豊かな胸にかき抱く。 
「士郎――」 
 その声はまごうことなく楽園の音色で。 
「残念ながら時間切れです」 
 でも告げる内容は終末の角笛だった。 
「――え?」 
 ちょいちょい、とライダーの指差す方――脱衣場の方を見ると。 
 そういえば最近あんまり見なかった、黒と赤の縦縞ストライプな服に身を包み、脱色したのか髪の毛を真っ白にしてくすくす笑っている間桐桜その人がいらっしゃいました。 
「先輩……ずいぶんライダーと仲がよろしいんですね」 
「いえ、これはですね」 
 何か言わなきゃと思うんだけど、とりあえずライダーの胸に顔を埋めているこの状況では何を言っても無駄だろう。 
「士郎――せめて来世では夫婦に――」 
「いやちょっと待てライダー! この状況でそう言う発言は洒落になってない――」 
「消えちゃえ」 
 ひょっとしたら語尾にハートマークがつきそうなほど楽しそうに桜がそう呟くと、その影は主の命を聞き愚か者を飲み込む。 
 そしてこの場合『愚か者』とは言うまでもなく俺とライダーのことであり―― 
「わぷ! わぷ! 桜! ごめん! ごめんて!」 
「明日には出して上げますから、しばらくなにもない真っ暗な部屋で反省していてください」 
「いや、桜! だから反省――」 
「士郎」 
「なんだ!?」 
 ライダーの言葉にそう問い返す。なんか問い返しちゃいけなかった気もするけど、問い返しちゃったのでしょうがない。 
「この機会です。虚数空間の中でも続きが出来ないか――サクラ、ジョークですジョーク! ウィットの効いたアメリカンジョーク!」 
 影は飲み込むだけでは飽き足らず、ライダーをギチギチと締め上げる。いや、ライダーが締め上げられるということはつまりさっきの体勢から動けていない俺も一緒に締め上げられるわけで。 
「先輩! 早くライダーから放れてください!」 
「いや、だったらこの拘束を解け!」 
「士郎、最後まで一緒です――」 
「きーっ!」 
 逆上する桜を何とかかんとか宥めすかし、俺が拘束から解放されたのは三十分後だったことを記しておく。 
 ちなみにライダーは朝まで虚数空間に締め出しの刑。 
「サクラは不公平です」 
「黙ってなさい!」 
             
             
             
 
 そして明けて翌日。空は見事な快晴だった。 
「どうも、お世話になりました」 
 旅館の人が呼んでくれた送迎用のハイヤーの前でそう言って頭を下げる。 
「それに、ご迷惑をおかけしまして……」 
「いえいえ、お気になさらず」 
「でも……」 
 女将さんの言葉は嬉しいが、浴場は半壊しており、当分使えそうにない。 
 何故半壊したのかと言うと桜が怒りに任せて展開した虚数空間が色々飲み込んでしまったからであり、さらにその原因はというと俺とライダーが浴場なんかであんなことしていたからである。 
 桜も、女将さんを見てさすがに申し訳なさそうにしている。 
「藤村様からはそれでも十分すぎるほどのお代を頂いております。それに――」 
「それに?」 
「切嗣さんのことを思い出せて、私も楽しかったですから」 
 そして女将さんはまたにっこりと微笑んだあと、何かを思い出すように遠くを見つめている。 
「オヤジも――この旅館を使っていたんですか?」 
 そう聞くと女将さんは俺の方に向き直り、「ええ」と答えてから言葉を続ける。 
「切嗣さんの息子さんと聞いてどんな方だろうと思っていましたが、まさかこんなにたくさんの女性を連れてこられるとは。士郎さん、あなたは切嗣さん以上ですよ」 
 いや、そんなもので越えたくないんだが。 
 ていうかオヤジ、アンタ外国だけじゃなく日本でもそんなんだったのか。 
 大空に浮かぶ親父にセイバーのエクスカリバーは届くだろうかと真剣に検討していると、女将さんに呼びとめられた。 
「最後にお願いがあるんですが、よろしいでしょうか」 
「はい、何ですか?」 
 ここまで迷惑をかけ――それがなくてもお世話になりまくった女将さんの願いだ。大抵のことだったら叶えて上げたいと―― 
「私のことを――『お母さん』と呼んでもらえませんか?」 
 そして女将さんの願いは『大抵のこと』ではなかった。 
「なんでさ」 
「だって、士郎さんが切嗣さんの息子だと言うことは私にとっても――」 
 ちょっと待てオヤジ。なんか女将さんが親切すぎるなと思ったらそういうことかコンチクショウ。 
「さあ! 士郎さん! お願いします!」 
 いや確かに女将さんの願いは叶えてあげたいんだけどそれでもその。と言うか、考えてみると俺には母と呼べる存在がいなかったので『お母さん』と言う呼び方自体恥ずかしい。 
 でも、だからと言って女将さんのこんなささやかな願いを無下に断ることも出来ないし――どうしようかと俺が悩み、硬直していると、女将さんの手を取る一人の人物がいた。 
 その人の名は。 
「お義母さん!」 
 ライダーだった。 
 て言うかお義母さんて。 
「ああ、私を母と呼んでくれるのですね?」 
「ええ、士郎の母と言うなら妻である私にとってもげらっ!」 
 送迎用のハイヤーの屋根から襲い来る、間桐桜の高角度ミサイルキック。それはライダーの頭部に見事に直撃し、ものの見事に吹っ飛んでいった。 
「ライダー! 全く油断も隙も――」 
「……義母上」 
「セイバーさん!」 
「お義母さん」 
「……お、お義母さん」 
「イリヤさんに加えて姉さんまで!」 
「う、うるさいわね。人生先出しだっていつも言ってるでしょう!」 
「そういうことよ。悔しかったらサクラも同じラインに立つことね」 
 そしてそう言ってふふんと胸を張る大きいあくまと小さいあくま。 
 その前で桜はプルプルと怒りに震えていたが、やがて女将さんの方へと向き直る。 
「お義母さん! 旅館の仕事を手伝わせてください!」 
「くっ……まさかそう来るとは」 
 というかこれはどう言う展開だ。俺はどうすればいいんだ。なんか良くわからんけど状況ばっかり進展してないか。 
 何がなんだかさっぱりわからず呆然としていると、ライダーに手を取られた。 
「じゃあ士郎は私と二人で帰りましょう」 
「ダメに決まってるでしょうが!」 
 そして後頭部から桜のラリアットをくらって吹き飛ぶライダー。 
 とりあえず、冬木に帰るのはもうちょっと先のことになるみたいだった。
            
  
             
             
             
             
            
            
             
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