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             「――逃げ切りました」 
 四月二日。そろそろ桜も満開を通り越して散り始める、そんな日の朝。 
 今日も今日とて朝食の支度をしようと思って台所に来たら、疲れ果てたかのように居間のテーブルに突っ伏していたライダーはそう言った。 
「なにがさ」 
 意味がわからなかった。逃げてきたと言うからには何かに追われていたんだろうけど、それを指す主語がないので何のことだかさっぱりわからなかった。 
「いえ、何でもありません。昨日の夜、ちゃんと寝た士郎には関わりのないことです」 
「――? まあ、ライダーがそう言うならそれでいいけど」 
 まあ、ライダーが思わせぶりというかよくわからないことを言うのは初めてではない。というか割としょっちゅうである。 
 こうして様子を見る限りでは、なんだか疲れてそうなのと服が所々汚れている以外は特に変わったところはない。本人が大丈夫と言っているのを執拗に詮索するのもどうかという話だし、ここはひとつ気にせず予定を消化しよう。 
「それじゃ俺は朝飯作るから、ライダーは風呂でも入ってこいよ。さすがに浸かるのは無理だろうけど、シャワー浴びればさっぱりするだろうし」 
 せめてもの気遣いと言う感じでそう告げて、厨房に立つ。 
 あとは朝飯の献立か。さすがに今から材料を買いに行くわけにはいかないけど、幸いながら我が家の食糧備蓄は習慣的に多めである。どうやら疲れているらしいライダーのために朝食のボリュームを多めにしても、喜ぶ人間はいても嫌がる人間は一人もいないだろう。 
「よし、それじゃ」 
 頑張るか、と。エプロンを着けて腕まくりをし、そう続けようと思ったら廊下にいた。 
 台所で料理をしようと思ったら廊下にいた。 
 超スピードとか催眠術とか―― 
「とりあえず、説明してもらっていいかな」 
「ここまで一瞬で来たのは超スピードです」 
「いや、そこじゃなくて」 
 モノローグにつっこまないで欲しいとかそう言うツッコミはどうでもいい。とりあえず今の状況――台所から廊下へと瞬時に移動したのは空間転移とか次元移動とかそういう難しいことではなく、ライダーの超スピードだった。そこはいい。 
 全サーヴァント中最速を誇るライダーの、文字通り目にも止まらないスピードに関しては今更どうこう言うことでもない。 
「まず、肩に担ぐのはやめて貰ってもいいかな」 
「……お姫様だっことかの方がいいですか?」 
「いや、問題はそこじゃないな」 
 そうツッコミを入れてみるが、ライダーはどうやら俺を解放するつもりはないっぽい。 
「じゃあとりあえず質問させてもらっていいかな」 
「はい。できれば手短にお願いします」 
「どうも」 
 何で俺がお礼を言っているのかよくわからないけど、そこを言い出したら状況は混乱する一方である。これまでの経験からそれを知っている俺は、余計なことを聞かずに確信だけを追求することにする。 
「ライダーはどこに向かうのかな」 
「風呂場ですが」 
「ああ、さっき俺がそう言ったもんな」 
「それでは、いいですか?」 
「ごめん、もう一個いいかな」 
「どうぞ」 
 なんで俺が謝っているのかよくわからないけど質問する。 
「どうして俺を担いでいるのかな?」 
 きわめて冷静に、決してうろたえたりはしないように気を配りつつそう問いかけると、問われたライダーは『はぁやれやれ』とでも言いたげに首を振ると、口を開いた。 
「二人で風呂に向かうんだから、二人で風呂に入るに決まってるでしょう」 
「いやいやいやいやいや!」 
 ライダーから衝撃的な――いやまあ正直なところ想像はついていたけど、とにかくそんなことを言われたのでジタバタと暴れてみるが、所詮は人の身である俺が英霊である上に怪力スキルまであるライダーから逃れることなどできるわけがなく。 
「大丈夫です。さすがの私もこんな朝から本番行為に及ぶつもりはありません」 
「朝からそう言うことを言わない!」 
「全く士郎はノリが悪い。私が『全裸なう』などとネタを振っても全く反応なしとはどういう了見ですか」 
「何の話だ!」 
「ええいもう、往生際の悪い。この状態から逃げることができないことぐらい士郎にだってわかるでしょう。ちょっと数分天井の染みの数でも数えていれば終わります」 
 そう言うとライダーは俺の抗議の声なんて聞こえていないかのように廊下を歩き、奥の風呂場へと向かっていく。 
 確かにライダーの言うとおり脱出は不可能だし、こんな朝早くに助けが来るとは思えない。 
 セイバーが起きるにはまだもう少しかかるだろうし、遠坂やイリヤが起きるのなんて朝食の準備が終わる頃である。こんな朝早くに起きているのなんて、現在進行形で加害者であるライダーを除けば今日の朝食当番で俺と―― 
「ライダー、何をしているのかしら?」 
 どうやらそれを手伝おうと気を利かせて早起きしてくれた桜ぐらいだった。 
 いや。桜は桜なんだけど、そこにいるのは俺の食事当番を手伝おうとしてくれるけなげな後輩なんかではなく。 
「……思ったより早かったですね、サクラ」 
「そんなことはどうでもいいから答えなさい、ライダー。先輩を連れてどこに行く気かしら?」 
 お気に入りのピンクのパジャマじゃなく、最早見慣れた感すらある黒字に赤のストライプという刺激的な色合いの服に身を包んだ桜だった。最近、笑顔を見るとビクッとしてしまうのは精神的疾患の一つじゃないかと真剣に思うことがあります。 
 そしてそんな桜の――自らのマスターであり親友であり、多分それ以上の、俺にはわからないような深い絆で結ばれた少女を前に、ライダーは堂々と言い放った。 
「二人でお風呂でしっぽりむふふと」 
 訂正、言い放ちながら影に飲み込まれた。もちろん俺ごと。 
「ちょっと待て、桜! 俺も巻き込まれてる!」 
「だって先輩、ヒマワリの人が言うまでわたしのことに気づいてくれなかったじゃないですか」 
「なんのことだそれ!」 
「なんでしょうね。まあ正直オチ要因に使われるのは予想がついてましたけど、昼間主に話題にしてるのがあのワカメだけって。しかもわたし登場を告げる人が別作品の人とかどうかと思うんですよね」 
「いやだから何言ってるのかわからないって!」 
 ワケのわからないことをつぶやき続ける桜に必死に呼びかけてみるものの、桜はくすくす笑っているばかりで聞く耳なんか持っちゃいねー。 
 そんな中も桜の足下から伸び、目に見える範囲全てを覆っている黒い影は俺たちを――俺とライダーをずぶずぶと飲み込んでいく。 
 ことこうなっては悠長に話し合っても意味はない。とりあえず何とかここから脱出して、桜が冷静になったことを見計らって話し合いを―― 
「士郎」 
「おう、ライダー。ここはひとまず――」 
「この際アレです、風呂じゃなくこの影の中でしっぽりむふふというのもオツなものではないかと」 
「えいっ」 
 ライダーが真顔でろくでもないことを言い出すのと、桜の弾んだ声が聞こえるのと、影に飲み込まれて大変なことになるのは同時だった。 
 
 
 
 
 
 
 
 そして朝食当番であるところの俺が桜の影に飲み込まれ、桜も食事なんか作れる状態ではなく、遠坂が朝起きて料理を作ることなんてあるわけないので朝食抜きが決定し、すったもんだのと大変なことになるのはその一時間後だった。 
 
「駄目です士郎。この中では動けないからあれこれするのは無理です」 
「うん、ライダーちょっと黙ってろ」 
 
 そんでもって何とか脱出したと思ったらセイバーが黒くなっててまた大変なことになるのは更に二時間後の話だった。 
 
 衛宮家は今日も平和です。 
 平和の基準は地域とかその他諸々によって違いができるものなんです。
              
             
             
             
             
             
            
            
            
             
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